得てして、
他人からこう思われたい自分
と
他人からこう思われてる自分
て、一致しないものであります。
たとえば、
『尽くす女性』だと思われたい女性は、
周囲からみたら
『尽くす女だと思われたい女性』に、見える。
これがさらに、アナウンサーとか歌手とか
何らかの形で露出する人の場合
『公の顔』としてのキャラクター
が発生するのですね。
この『公』のキャラクターは
『私』的な、素の人格と真逆であってもいいわけです。
割り切って、頑張ってるなと思ういい例は
女医の西川先生。
悪キャラに徹しきれず(というか悪キャラは仕事と割り切れず)
苦しくなっちゃったのが
元アナウンサーの川田亜子さんだと思うのです。
私もシンガーなので、リハのたび、ライブのたび、
自分について考えることになります。
自分についてというより、
自分がめざす自分と、求められてる自分と、
これでいいのかな、ということ。
意外かもしれませんが「人がなんと言おうと私は私」という性格でもないため、
(周囲のほとんどの人に賛同を得られなくても、直感で「こっち」とか
何の説明もなく違うことを始めてびっくりされることはある)
きっとこの自問自答は一生続くのだろうと思います。
もともと得意ではなかった歌、
ここまで長く続けているとは思わなかった。
ボーカルトレーナーとしては
不思議なぐらいにポリシーは固まっていてブレない。
ちなみに、
よくヒットチャート上位の曲について「歌の先生的に、あの歌ってどうなんですか」
とか
ライブ観に行って「歌の先生として何かコメントあれば」
とか
言われるんですけど、
まず私、はじめて曲を聴くときに
ボーカルトレーナーとして聴く
ことは絶対にしません。
1視聴者、1お客として先入観ゼロ、まっさらの状態で受け取りたいので。
好きと思うか面白かったか来てよかったか、
そういう感想しか持ちません。
生徒のライブを観に行くこともありますが、それは「仕事」になるので
仕事として出かけます。
なので
「先生として聴いてないので分かりません」
って言います。
(だって「コメントいるなら月謝払って生徒におなり」って言ったらケンカになるでしょ(笑)
なんちゃってーーー)
その昔一緒に演ってた仲間の一人が、
ある大物海外アーティストのライブをどこかのスタジアムで観たあとで、
「ぶっちゃけソックリさんが来てライブしてても分かんないよねーーー」
って、うすら笑いながら飲んでるのを見て、
内心「コイツとはもう一緒に演れないかもな」って思ったのを覚えています。
中途半端に歌や演奏がうまくなったって、人の演奏を批判的にしか聴けなくなるなら、
そんな耳もハートも声も、全部要らない。
うぬぼれってこわいなと心底思いました。
確かに、会場広すぎて本人豆つぶみたいだったし、
後ろの席の人とか大声で一緒に歌っちゃうもんだから邪魔だったけど(笑)
でも、となりの老夫婦もこっそり口ずさんだり、思い出の曲なのか涙ぐんだり、
世代を超えて国も超えてみんなが知ってるって、どんだけすごいねんって思った、
それを肌で感じたあの感動はちょっと説明しづらいです。
歌でもトレーナーでも一流になりたいけれど、
何より素晴らしいものにきちんと反応する、一流のハートと耳をもっていたい。
そんな風に思ってみたりする、この頃。
どうなりたいかを、強烈にイメージしよう。
どう思われたいかを、冷静に見つめよう。